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ベルリン
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West Berlin 西ベルリン1985

陸の孤島、西ベルリンへ

Brandenburger Tor1985年夏、東ヨーロッパ諸国を旅行するためその玄関、陸の孤島(西側から見た場合)西ベルリンを目指した。フランクフルトを経由するルートとハノーファーからのルートがあり、鉄道のスケジュールからハノーファー経由を選んだ。それは出来るだけ明るい時間帯に西ベルリンへ到着したかったからだ。ハノーバーからベルリンへは東ドイツを通過するためInter Rail Passは使えない、よって別途購入した。メモでは、1985年8月7日、Hanover発(10:15)、West Berlin Zoo着(13:45)、鉄道料金39DM(2等片道)とある。

西ベルリンでは東ヨーロッパの鉄道料金割引カード(確か28歳まで)の申請・取得を行い、ここから鉄道で、ワルシャワクラコフプラハへ向かった。共産主義末期、現在はEUに加盟したポーランド、チェコスロバキア(1989年にチェコとスロバキアへ分離独立した)を鉄道で周り、チェコスロバキア(当時)のプラハから、西ドイツのニュルンベルグへ夜行列車で出国した。写真は東ベルリン側からのブランデンブルグ門、こちらが正面だ、だが東ベルリン側にはコンクリートの壁があり、しかも壁までも近づけなかった。

東ベルリン | 西ベルリン | ナホトカ航路シベリア鉄道

東西ドイツの位置関係

第二次世界大戦で連合軍に降伏したドイツ帝国は、米英仏とソ連の統治地区により東西ドイツ、左下の地図でオレンジ色が西ドイツ、緑色が東ドイツ(東西ドイツの表記が逆だが)、に分割されそれぞれ1949年に独立した。右下の図は鉄のカーテンを挟んで東西ドイツ分割と同時に資本主義陣営(西ドイツ、オーストリア)と共産主義陣営(東ドイツ、チェコスロバキア、ハンガリー、ユーゴスラビア)に分かれた。首都ベルリンは東ドイツ(ソ連統治地区)にありながら、さらに米英仏ソの占領地区のため東西ベルリンに分割された。そのため、独立後、西ドイツの首都はボンに置かれた。

formr West Germany and formaer Est GermanyEast and West Germany

東西ベルリンの位置関係

東西ドイツ分割と同様、首都ベルリン(東ドイツ領内に位置する)も統治地区によって米英仏地区の西ベルリンとソ連地区の東ベルリンに分割された(左上地図)。当然ながら東西冷戦の最前線であり、西ベルリンには米英仏軍、東ベルリンにはソ連軍が駐留し緊張していた。終戦直後は壁がなかったが、西ベルリンを経由して亡命する東ドイツ人が絶えなく1961年8月13日からベルリンの壁によって分断(1989年11月9日まで)され(左下地図)、西ベルリンは完全に陸の孤島となった。その国境は壁沿いのポイントとフリードリッヒシュトラッセ駅にあり(右上地図)、外国人と外交官、西ドイツ市民のみ、西ベルリン市民のみ、鉄道トランジット等と指定され、どこからでも出入国できるわけではなった。外国人はチェックポイント。チャーリーからのみ東ベルリンへ出入国できた。

空港は西ベルリン側にTegel空港とTempelhof空港が、東ベルリンにはSchonefeld空港(右下地図参照)が機能していた。鉄道は西ベルリン側が動物園駅、東ベルリン側が東駅がターミナルだった。

 

 

西ベルリンの印象1985年

Kaiser Wilhelm Gedachtniskircheハノーファーからの列車は動物園駅に着いたのだろうか定かではない。YHのガイドブックを頼りにとりあえずその日の宿を確保した。YHは広い敷地の中にある4-5階建ての近代的な建物だった。ベッド数もかなりあった(現在は342ベッド)。部屋は二段ベッドが二つある4人部屋、窓からは西ベルリンの街が眺められた。所々に空き地が見え、人が住んでいる住宅地ではなく、都市の中の未利用地が点在していた地区だった。窓から赤黄金色に輝く外装とコンサートホール特有のずんぐりむっくりの建物が遠くに見えた。地図からベルリンフィルではなかっただろうか。

部屋に荷物を入れた後、ヨーロッパセンターを目指して散策に出かけた。途中、立派な建物だが使われていない、そして、屋根の上に日章旗が掲げられた建物があった、後述する旧大日本帝国大使館だ。ヨーロッパセンターは屋上にメルセデスベンツのマークが設置してある近代的なデザインのビルでここだけ浮いていた。特に直ぐ目の前に尖塔が破壊された状態で残されたカイザーウイルヘルム記念教会との対比もあった。ヨーロッパセンターの中はショッピングセンター、ぐるりとウインドウショッピングをした。写真はZoo駅からヨーロッパセンター方面を望む、

カイザーウイルヘルム記念教会(Kaiser Wilhelm Gedachtniskirche)

Kaiser Wilhelm Gedachtniskircheヨーロッパセンターの横に、広島の原爆ドームを思わせる第2次大戦末期に爆撃され、ゴシック様式の尖塔が破壊された状態で保存されている教会があった。これがカイザーウイルヘルム記念教会だった。その横に、新教会があり、外からはわからなかったがブルーのガラス張りデザインで、教会の中から祭壇を見上げると濃いブルーの夜空に十字架のキリストが浮かび上がるデザインだった。

Berlin - Youth Hostel International

西ベルリン動物園駅へ到着して先ずは宿の確保でありYHガイドブックに掲載されていたこのYHを目指した。バスで行ったのだろう、何とか辿りつき、チェックインを済ませて部屋から外を眺めていた。午後の遅い時間、18時前後だろう、日本人らしき数人が手を振るので降りてみた。彼等は東京と大阪からの旅行者だった。東京からの旅行者は一人旅で翌日西ドイツへ戻るとのこと、大阪からの旅行者は女性三人組で同じく数泊して西ドイツへ戻る予定だった。何れも大学4年生、関西では4回生と表現すると説明を受けた。立ち話の後、夕飯へ一緒にいこうということになり、あてもなく歩き始め、近くのバーへ入り、あれやこれやとこれまでの旅行情報を交換した。ベルリンまでは日本人も何とかやってくるようだが、それ以東へは少なく、彼等も興味があるとは思えなかった。

Kluckstr. 3
10785 Berlin Germany Tel. +49-30-747 68 79 0 Fax. +49-30-265 03 83
jh-berlin@jugendherberge.de

写真が西ベルリンにあったベルリン国際YH。現在も健在だ。

旧在ドイツ帝国大日本帝国大使館(西ベルリン)

まったく偶然だが宿泊していたYHからノイエハンザ地区かTiger Gartenへ行く途中に通り(Tigergartenstrasse)を歩いていたら日本の国旗を掲げ十六八重表菊紋章(菊のご紋)を付けた新古典様式の大きな建物が目の前に現われた。宿泊していたYHからも非常に近い。敷地はブロックされ立ち入り禁止、夏草が繁茂し建物はやや朽ちていた。旧大日本帝国大使館であろうと想像し地図で確認すると旧日本国大使館と示されている。澄み切った青空を背景に日の丸が揚々とはためいていた。当時、在西ドイツ日本国大使館は、首都であるボンにあり、東ベルリンには在東ドイツ日本大使館があった。

1985年当時は旧大使館は特に利用されていなかったようだが数年後の1987年から日独文化センターとして利用されることになった。現在、この旧在ドイツ帝国日本帝国大使館は大規模な改修を行い、在ドイツ日本国大使館として復活している。新旧ベルリンの象徴のようだ。隣には日独伊三国同盟国であったイタリア大使館が建っている。ベルリンでは一等地とのこと。

在ドイツ日本国大使館

Hiroshimastr. 6, 10785 Berlin
Tel. +49 (0)30 210 94-0


チェックポイントチャーリー(東ベルリンとの国境検問所) Checkpoint Charlie

Checkpoint Charlie西ベルリンから東ベルリンへ行くには西ドイツを出国し、東ドイツに入国する必要があった。ビザは事前に取得していなかったが24時間ビザが国境で取れると聞いていた。この24時間ビザは25西ドイツマルクを東ドイツマルク(公式レートは1:1)へ交換する条件付であったが、両替さえすればビザが取得できた。東ベルリンへはFreidrichstrasseとZimmerstrasseの交差点にあったチェックポイント・チャーリー(米国統治地区とソ連統治地区境界上にあった。)という国境検問所から東ベルリンへ歩いて入国した。「チェックポイント・チャーリー」という名称は西側連合国による呼称で、NATOフォネティックコードの「C」に当てられる "Charlie" から取られたものであり、検問所C程度の意味となるが、これが一般呼称化したようだ。

町の中にある国境は初めてであり、また、建物が煤けていたり網が掛けられていたり荒んだ世界への入り口のような印象だった。時折、旅行者や自動車がこの国境ポイントを通過していた。

この先のことは東ベルリンをご覧下さい。

壁の向こうを見る展望台 Checkpoint Charlie

Checkpoint Charlieチェックポイントチャリーの横に東ベルリン側を見る展望台があった。JFKをはじめ各国要人もここから東ベルリンを眺めたようだ。何人かが既に上っていたので私も上ってみた。チェックポイントチャーリーが左側に見える、その先はFreidrichstrasse沿いのビルだ。

建物が連続していないこと、建物の表面が黒く煤けていたこと、維持管理がなされていないこと、長期間に亘り建設が止まっている建物などが視野に入り殺伐とした都市の風景だった。

東欧ユース証明書取得

ガイドブックにこの証明書を取得しておくと東欧圏の鉄道が割引になることが説明されており、ガイドブックの説明に沿ってとにかく実践してみた。対象は28か26歳まで、写真と年齢を証明するもの添えて申請し取得した。窓口の担当はきっと学生だったのあろう、親切丁寧に対応してくれた。この証明書を使ってベルリンからワルシャワまでの切符を動物園駅で購入した。料金は片道2等、DM40だった。

西ベルリン動物園駅(Berlin Zoologischer Garten Railway Station)

この動物園駅が西ベルリンから以北の東ヨーロッパ諸国・ソ連への出発点となっていた。職員の対応が西ドイツとは異なり非常にそっけなく気になっていたが、後から駅は西ベルリンに位置しながら運営は東ドイツということを聞いた。

駅構内で中国人らしき人にいきなり中国語で何やら話し掛けられ驚いたが、彼は私が中国人でないとわかると踵を返して立ち去っていった。

ワルシャワへの列車は夜行列車だった。列車は二等、西側のコンパートメントを期待したが8人掛けとやや窮屈だった。

ノイエハンザ地区再開発(Hansaviertel)

西ベルリンのHansaviertel地区に再開発の事例(1957年)があったので視察に行った。デザインは、国際設計コンペによりグロピウス、ニーマイヤー、アールト等著名な建築家が参加した。中高層、低層住宅から構成され、48名(左上の写真)の建築家が参加した集合住宅展(Interbau)。

1989年11月9日ベルリンの壁崩壊

あれから4年少々でベルリンの壁が崩壊した。そして東西ドイツ統一が成し遂げられた。人民の力は偉大だ。

西ベルリンLink

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