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東欧諸国1985
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東ベルリン、ドイツ民主共和国 (DDR)

東西冷戦の象徴、東西ベルリン(東西ドイツ)の現実をこの目で見てみようと予定通りベルリン行きを実行した。ハノーファーから列車で先ず西ベルリンへ、そして、徒歩で東ベルリンへ渡った。ビザの関係で他の東ドイツの都市までは足を伸ばさなかったが、1985年8月8日(木)、東ベルリンへ行くため24時間ビザをチェックポイント・チャーリーで取得し、概ね早朝から夕方まで壁の向こうを散策した。(東ベルリンから見れば西が壁の中なのだが。)

ドイツ民主共和国 Deutsche Demokratische Republik (DDR)

東ドイツは、第二次世界大戦後の1949年、ドイツのソビエト連邦占領地区に建国された共産主義国家であり、ドイツ西部から南部にかけてのアメリカ・イギリス・フランス占領地区(下図参照)に建国されたドイツ連邦共和国(旧西ドイツ)とともにドイツを二分した。連戦構造の最前線、分断国家とも呼ばれた。

DDR DDR

東ベルリン略史

東ベルリンへの道のり−ハノーファー経由

 

1985年、夏、ナホトカ航路シベリア鉄道経由モスクワへ、そして、レニングラードを経てフィンランドへ抜けた。次の目的地ベルリンへ行くため、ストックホルム、コペンハーゲン、ハンブルグを経てハノーファーから鉄道で西ベルリンへ向うことにした。ソ連ではかなり緊張したので足が容易には東へは向かなかったが、当初の目的ど おり東ヨーロッパの玄関である陸の孤島(周囲は東ドイツ)西ベルリンを目指した。ハノーファーからベルリンへは 東ドイツを通過するためInter Rail Passは使えない、よってハノーファーでこの区間を別途購入した。1985年8月7日、Hanover hbf発(10:15)、West Berlin Zoo着(13:45)の列車に乗車、メモには鉄道料金39DM(2等片道)とある。東ベルリンに滞在したのは1985年8月8日(木)だ。

左上の地図はベルリンの米英仏ソによる占領地区、米英仏統治地区が西ベルリン、ソ連統治地区が東ベルリンとなった。右上の地図は壁の位置と東西ベルリンの国境ポイント、外国人はチェックポイント・チャーリーからのみ西から東ベルリンへ出入国できた。

国境通過−西ドイツから東ドイツへ、そして西ドイツへ

Brandenburger Tor East Berlin 1985東西ドイツ国境(Marienboth)に差しかかる前に先ず西ドイツの、そして東ドイツの入国管理官が列車に乗り込んできてパスポート コントロールがあった。西ドイツからの出国はパスポートを見せただけだったが、東ドイツ側ではここでトランジットビザ (下にある画像)を取るため少し時間がかかったが、それ以外はスムーズにことが運んだ。 西ドイツのパスポートコントロールの後、車窓から国境(柵)が見えた。さしずめ、映画の大脱走のような緩やかな地形の農地が続いていた。但し、西ドイツ側と東ドイツ側ではその農地の管理状況が一目でわかるほどはっきりと差がついていた。それは、西ドイツ側は非常に整然としていたが東ドイツ側は何か雑然としていたからだ。

パスポートのスタンプから1985年8月7日に 東ドイツに入国、8月10日に出国している。8月7日は西ドイツから東ドイツを通過し、西ドイツ(西ベルリン)に入国したことになる。8月10日は、西ベルリンのZoo駅(西ベルリン)からワルシャワへの夜行列車に乗車、西ドイツ(西ベルリン)−東ドイツ(東ベルリン)−ポーランドと移動した。

写真は東ベルリン側からのブランデンブルグ門。門の下に白く水平に見えるのはベルリンの壁。

二つのドイツ(東西ドイツ)、二つのベルリン(東西ベルリン)

Alexanderplatz East Berlin1985なぜベルリンはこのようなややこしい状況になっているのか、それは、ドイツ帝国が第2次大戦で敗れた後、連合国(米英仏露)による陣取り合戦の舞台となったからである。米英仏の資本主義グループの統治地区が西ドイツ(ドイツ連邦共和国)となり、他方、共産主義のソ連の統治地区が東ドイツ(ドイツ民主共和国)となり国土が二分された。実際には米英仏がかなり押し戻したようだ、最初にベルリンに入ったのは赤軍なので。

ドイツ帝国の首都であったベルリンも米英仏とソ連の占領地区に二分され必然的に東西ベルリンに分割された。西ベルリンは地理的に東ドイツの中にある西ドイツの離れ小島となり、西ベルリンへ行くためには、東ドイツを横切らなくてはならなかった。終戦直後は壁がなかったが、1961年8月13日からベルリンの壁によって分断(1989年11月9日まで)され、西ベルリンは陸の孤島となった。当然ながら東西冷戦の最前線であり、西ベルリンには米英仏軍、東ベルリンにはソ連軍が駐留し緊張していた。

写真はテレビ塔に登るための順番待ちの列、並ぶ気になれず平面の散策に徹した。左がAlexanderplatz駅、右にTV塔の足が若干見える。

チェックポイントチャーリー経由、東ベルリン(東ドイツ)へ

Checkpoint Charlie1985西ドイツに滞在中、東ヨーロッパ旅行の計画を立てた。日本を出発する前にポーランド、ハンガリー、チェコスロバキアのビザを取得しておいたので行程を決めればよかった。列車のスケジュールはトーマスクックの時刻表に概ね掲載されていたので、長時間にらめっこした結果、ハノーファーから東西ベルリン、 ワルシャワ、クラコフ、プラハと移動することにした。ハンガリーはウィーンから近いので、再度出直すことにした。その東ヨーロッパの玄関都市、西ベルリンへはハノーファーから1985年8月7日に到着した。

西ベルリンから東ベルリンへは、FreidrichstrasseとZimmerstrasseの交差点にあったチェックポイント・チャーリー(米国統治地区とソ連統治地区境界上にあった。)(左の写真)という国境から東ベルリンへ行った。この国境検問所の「チェックポイント・チャーリー」という名称は西側連合国による呼称で、NATOフォネティックコードの「C」に当てられる "Charlie" から取られたものであり、検問所C程度の意味となるが、これが一般呼称化したようだ。英米仏の管理下にあった西ベルリン故のことと想像している。前述、壁の地図のにあるように他にも東西ベルリンの国境がいくつかあったが、西ドイツ市民のみ、西ベルリン市民のみなどと管理が厳しく、外国人と外交官はこの国境検問所のみに指定されていた。(Checkpoint Charlie at Friedrichstrasse/Zimmerstrasse)

東ベルリンの地図

ここに掲載しているガイドや地図は、東ベルリンで入手した。なかなか立派な出来栄えで街を把握し歩き回るのに役に立った。この点は東西ベルリンとも変わらないサービスレベルだった。Unter den Linden, MarxEngels Platz, TV Tower, Alexander Platz等を歩き回った。日本人やアジア系には出会うことがはなく、カメラを提げてひたすら歩いた。東ベルリンの人々は他人には関心を示す余裕がなさそうにみえたがこちらは彼等を観察した。表情が暗く、すれ違うときに単に一瞥をくれるだけであった。Marx Engels Platzに面するの一階にあったカフェかレストランで休憩を兼ねて入った。言葉の問題もあるが、全てに暗かった。

Transport Map of East Berlin Tourism Map of East Berlin
Transport Map of East Berlin Tourism Map of East Berlin
24時間滞在ビザと強制両替

東ベルリンへ入国するのには、1日ビザと強制両替があった。当時、東欧諸国では旅行者一日当たりの最低両替額(支出額)が定められていた。これは外貨獲得の一環であったようだ。

東ドイツへの入国に際して、DM30と引き換えに24時間観光ビザを取得した。内訳は一日観光ビザDM5、そして、強制両替DM25(西ドイツマルクから東ドイツマルクへ、交換レートは1:1)だった。東ベルリンの場合25西ドイツマルク が強制両替最低額だった。

東ベルリンではなかったが、出国時に両替証書を税関で提示し、 必要最低日数分に不足しているとその場で換金することを迫られると聞いていた。実際、換金させられたとしても、出国するので何の意味もなく(西側では両替不可能か、5分の1程度の換金率だった)、また持ち出し禁止などといって結局放棄せざるを得ないという話を聞いていた。このときの東欧諸国旅行では、最低かそれ以下しか両替していなかったが、出国する時には特にチェックは入らなかった。

ブランデンブルグ門とウンター・デン・リンデン、そしてトラバン(Trabant)

チェックポイントチャーリーから地図を見ながら歩き始めた。先ず向ったのはブランデンブルグ門とそこから伸びる ハイネの詩に謳われるウンター・デン・リンデン(菩提樹の並木道)。前日、ティアガルテン(西ベルリン)から ブランデンブルグ門をみていた。門の表と裏だが、緊張感は全く違っていた。

ここで興味を惹かれたのは、青い煙をもくもくと吐きながら2サイクルエンジン(青い排ガス撒き散らしているので見れば直ぐわかった)の音を発しながら街中を走りまわるキュートな自動車トラバン(Trabant)だった。


東ベルリンを走るトラバン

街中で写真を撮っても問題ないようだったのでシャッターを切った。ソ連で捕まった経験がありシャッターを押すときはいつも緊張した。チョコチョコと青い煙を吐きながらブンブンという音を出して走るトラバンは直ぐに脳裏に焼きついた。道路は広く、交通量は少ないのでこれがまた良く目立った。左の写真はUnter den Lindenの延長であるKarl-Liebknecht-Strase、右はUnter den LindenとFriedrichstrasseの交差点だろう。

Karl-Liebknecht-Strase East Berlin Unter den Linden, East Berlin
Karl-Liebknecht-Strase トラバンが走るUnter den Linden

ベルリンの壁

Palas Hotel East Berlin東西ベルリンを分断していた壁、今はもうない。はじめてこの壁の事を聞いたときは不思議に思ったものだ。 一つの都市の中に壁の国境が存在している。そして、そう簡単には行き来が出来ない。東と西では国が違うのだ。

西ベルリンは、東ドイツの国の中にある西ドイツの孤島のようなもの。したがって周りを壁が囲んでいた。 第二世界大戦後の占領政策によって生まれたとはいえ、妥協の産物という印象を拭えない。

東ベルリン側から壁を見たが、そこには殺風景の壁が延々と立ちはだかったままだった。また、 近づくと危険とガイドブックに説明があった。この壁はいつか観た映画「戦場のピアニスト」のなかで、 ワルシャワのユダヤ人ゲットーを囲む壁のようだった。ベルリンではどちらが囲われているかといえば、 それは西ベルリンなのだが。

西ベルリン側の壁は、落書きだらけであった。そして、所々に十字架が立てられて日付と名前が刻まれていた。 これは、東ベルリンから壁を越えて亡命しようとした人が、逃げ切れず国境警備隊に射殺されたということを後で知った。

写真は上記東ベルリン中心部地図の40、Palas Hotel, Unter den LindenからAlexanderplatz方面、Spree川を渡った左にあったホテル。

東ドイツトランジットビザと出国スタンプ

1985年8月7日(トランジットビザのスタンプ参照)に 東ドイツに入国、8月10日に出国している。西ドイツから東ドイツ領土を通過して西ドイツの西ベルリンへ行き、それから、東ドイツの東ベルリンからポーランドのワルシャワへ列車で発った。移動を表現するとこのようになる、陸の孤島ゆえのことだ。

右端のスタンプはワルシャワへ夜行列車で向かうときに西ベルリンの動物園駅から乗車し、東ベルリンのフリードリッヒ通り駅で東ドイツに入国したときのスタンプ(8月9日)、ポーランドへ出国するときには翌日10日の出国スタンプが押された。

Transit Visa of East Germany Transit Visa of East Germany
トランジットビザ 1985年8月7日のスタンプ フリードリッヒ通り駅の入国スタンプ

無機質且つ巨大なアパート群

Leipzgerstrasse, East Berlinチェックポイント・チャリー検問所から東ベルリン側へ入ると クランクのように折れ曲がった国境になっていた。そこを歩いて通過した。その先に展開する風景は、無機質且つ巨大なアパート群か、古い映画で見た光景、若しくは廃墟のような殺伐たる光景が入り交ざって展開していた。道行く人々の服装や走っている車(トラバンやLADA等)等、壁を隔てただけで全く光景が違ってしまった。 しかし、よく見ると所々にベルリンの歴史的な建物が残っている。眼を凝らすと建物の物陰に鍋を逆さまにしたようなヘルメットを被った兵隊がいた。

ブランデンブルグ門、ドイツ語の授業で暗記したハイネの詩に出てくるウンターデンリンデン、テレビ塔のある広場Alexanderplatzなど 徒歩で東ベルリン(旧ベルリンの中心街)を探索した。

強制両替した25マルクは東ベルリンでは結構な大金で簡単な食事では消費しきれない。一人ということもあって レストランで食事というのは抵抗があり、西ベルリンでよく食べていたソーセージとパン、それにザウワークラウトを 摘んだ。

写真はFriedrichstrasseからLeipzgerstrasseの高層住宅群を見る。

5分の1になった東ドイツマルク

Checkpoint Charlie1985西ベルリンへ戻るときに東ベルリン側で東ドイツマルクを西ドイツマルクへ再両替が出来るのだが、うっかり忘れて西ベルリンへ出てしまった。 チェックポイントチャリーの前に西ドイツの銀行があり、窓口で交換レートを確認すると、なんと1:5なのである。 つまり東ドイツマルクは西ドイツマルクの5分の1の価値ということで、残った20東ドイツマルクは交換しないで 持ち帰った。これは今でも保管している。

写真上は東ベルリンの通り、高層アパート群と車が少ない通り、写真はチェックポイントチャリーの近く、東ベルリンを眺める展望台。

動物園駅(Berlin Zoologischer Garten railway station)からワルシャワへ

西ベルリンで入手していた東欧諸国向け国際学生証(28歳以下の若者を対象とした割引切符購入のための証明書)を利用して 西ベルリンの駅でワルシャワ行き切符を購入した。窓口で列車番号、ワルシャワまで片道、2等と言えば買えた。これをドイツ語で言えるように事前に学習しておかなければならなかったが。しかし、これは上手くいった。料金はワルシャワまでDM40だった。

列車は夜行列車で、動物園(Zoo)駅から21:01発だった。この駅は西ベルリンにありながら東ドイツ国鉄が運営しているので職員は素っ気がないったらありゃしない。同じドイツ人なのに政治体制が違うだけでこうも人間が変わってしまうものなのかと思ったものだ。

ワルシャ行き列車に乗るときに行き先を間違えないように乗り込んだ。いくつかの車両はワルシャワまでだが、それ以外はモスクワ行きと書いてあった。コンパートメントは、8人掛け、西側は6人掛けだった、からやや窮屈だった。ほぼ満席、乗客も多く足を投げ出すことはできなかった。

東西ベルリンを垣間見て

1985年8月7日から8月10日までの僅か3泊4日を東西ベルリンで過ごした。教科書や書物に書いてあることをトレースし再確認したような滞在となったが、この旅行の目的の一つであり、東西ベルリンを実体験したことは非常に有意義であったと今でも思っている。平和な日本から見れば同じ敗戦国ながら、分断されソ連の脅威に晒されている東西ドイツ、東西ベルリンを垣間見ることが出来たことは、忘れ得ない貴重な体験となり、脳裏の奥深くにその情報が刻み込まれた。

当時、西ベルリンには日本人旅行者が若干いた。宿泊していた西ベルリンのユースホステルには私の他、3名同時期に泊まっていたが、彼等はベルリンまで。そこから東へ、ポーランド方面は本当に少なかった。西ベルリンではアジア系は日本人くらいだろう、しかし、東ベルリンには中国人がいた。多分、留学生だろう、駅で一度話しかけられたが、中国人でないとわかると踵を返して立ち去った。何だったのだろうかと思ったものだ。

ソ連の次に滞在した共産主義国、東ドイツの東ベルリン、ソ連でのような写真を撮っていてミリッツィア(民警)に連行されることもなく、エレベータに閉じ込められることもなく、かなり気分的に楽であった。3泊4日の滞在期間中、何事もなく東西ベルリンを歩き回れたことは、光栄の極みであった。

東西ベルリンの後は、前述の通り、ポーランドのワルシャワへ夜行列車で向かった。そして、クラコフ、ワルシャワ、チェコスロバキアのプラハと移動して西ドイツのニュルンベルグへ向かった。

ベルリンの壁崩壊1989年11月9日

あれから4年少々でベルリンの壁が崩壊した。そして東西ドイツ統一が成し遂げられた。当時はその前兆させ知る由もなかった。

20年後の統一ベルリン

統一後20年目にしてやっとベルリンと再会した。(準備中)

ベルリン読本

2001年になってから冷戦下のベルリンを舞台にした小説が発刊された。春江一也著”プラハの春”、”ベルリンの秋”は小説ながらノンフィクション的傾向が強く当時の東ベルリンの状況が丁寧に説明されている。著者は冷戦当時在東ベルリン日本大使館館員として赴任していた経験がある。これを読むと当時の東西ベルリンがよく理解できる、お薦めの一冊です。

東西ベルリン・リンク

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