モスクワ1985夏
赤の広場に立つ The Red Square (1985年7月9日)
1985年7月9日、とてもさわやかな夏の日、この広場に立った。これまで何度も軍事パレードが行進するテレビ映像を観ていたが、ここはその映像ほど広さを感じさせない細長い広場だった。この広場の名前は”赤の広場”と呼ばれよく知られていた。
前日の7月8日夕刻、シベリア鉄道でモスクワに着いたばかりだ。どこを見ても物珍しいのと共産主義ゆえか、緊張感があった。到着当日は、夕刻だったこともあり宿泊先のコスモスホテル内とその付近を散策し、翌日に赤の広場を目指した。コスモスホテルの位置するVDKh駅からは地下鉄を一度乗り換えて赤の広場に近い駅で下車した。街の歩き方など知る由も無く、どうやってここまで来たのかと考え直すと、ホテルで行き方を聞いてその情報を辿って来たのだろう。
ソ連には既にナホトカで入国していたが、大都市はモスクワが初めてであり、ホテルの大きさや地下鉄のネットワーク等から都市を感じた。
赤の広場とクレムリン
不思議だったのは、日本人だからといってあまりじろじろと見られなかったことだ。こちらは待ち行く人々をジロジロと見ていたのだが。
細長い赤の広場は、クレムリン宮殿の城壁が片側を、もう片側を”グム百貨店”の大きな建物が塞いでいる。そしてレーニン廟がクレムリン宮殿の正面に鎮座している。この細長い広場の方辺にはワシリー寺院という独特な屋根のデザインを持つロシア正教会が鎮座しアクセントを与えていた。一度ここに立ったら2度と忘れない光景だ。
新婚カップル The Red Square- Beide and Groom
赤の広場をゆっくりと見て回った。ここには外国人観光客らしきカメラを提げた人が多くいた。モスクワ一の観光地なのだろう。私もこの旅行の出発直前に買った中古のCANON AE1-Programeを携行し、ただ物珍しさだけが先走っってシャッターを押した。このときはまだ一眼レフカメラに不慣れで、今思えば露出の調整がよく理解できていなかった。
赤の広場、クレムリン正面にはレーニン廟があったが、これはあまり興味がなく入らなかった。ただただ、広場を行き交う人を眺めていた。
新婚カップルその2
赤の広場では新婚カップルとその一行が何組も記念撮影をしているのに居合わせた。それで私もパチリ!後から聞いたのだが、共産主義時代は宗教が否定されていたため結婚式には宗教色がなく婚姻届(登録)を出した後、赤の広場や見晴らしの良い公園などへ出かけてそれからレストランで披露宴が行われていた。この季節は結婚シーズン、ホテルでは披露宴のためレストランが貸しきり状態、しかし、フレキシブルなのか、他に食事を取る場所が無いからなのか、そんな披露宴に混じって私のような個人旅行者の食事が用意された。
赤の広場に面するグム百貨店 The GUM Department Store
広場に佇み人の動きを見ていたら何人もの人がここに吸い込まれていく。その後を追いかけ好奇心いっぱいで扉を開けたらそこはアーケードだった。赤の広場に面するグム百貨店(Главный Универсальный Магазин)、天井がガラス張りで自然光がよくはいる2層アーケード様式の建物で小さなお店が限りなく繋がっていた。 一通り見て回ったが衣類や小間物、化粧品を扱う商店が多かった。中には家庭電化製品も販売されていたがソ連製か他の共産圏製だった。衣類なども共産圏の製品で西側のデパートで見かける物ははなかった。とにかく規模が大きくまた歴史的な建物であり印象的だった。
グム百貨店散策 その1 Exploring GUM
グム百貨店は小さなお店の集合体のように見受けられた。ただ、きっと国営だろうから何かデマケがあるのだろう、それぞれのアーケードは色分けされていた。何か意味があると思うのだけど、見て回った印象では違いがわからなかった。商品は、衣類が多くその他生活用品等であった。どこでもそうだが、女性用衣料、化粧品などが多かった。規模的にはこのようなアーケードは西ヨーロッパでも見たことがなかった。
グム百貨店その2 Exploring GUM
巨大な室内空間、厳冬の地ゆえなのだろうか。整然としていてそれぞれのブースには商品のディスプレイがあり、ちょっとしたウィンドウショッピング気分だった。どんな商品が売られているのだろうかと興味津々で覗いてみた。
一つ一つショウウインドウを見て歩いたが、私の記憶にある製品やブランド名は見つからず、従って、ほとんどがソ連・東欧等共産圏の製品だった。
グム百貨店その3
通路が交差する地点には噴水があった。壁の色と交差点のランドマークで店の場所が特定できそうだ。歴史的な建物を使っているからなのか、趣があって気に入った。
また、赤の広場やグム百貨店は写真を撮っていてもまったく問題ないのでこの点は気分的に楽だった。ハバロフスクでの一件があるので緊張せざるを得ない状況だったので余計だ。
モスクワで泊まったコスモスホテル Hotel Cosmos
横浜を出航しナホトカ航路シベリア鉄道経由で旧ソ連邦の首都モスクワへ約10日間かけて辿り着いた。その長旅の疲れを癒すべくモスクワオリンピック開催直前に建設された真新しい(当時としては)このコスモスホテルに宿泊した。フランスのホテルグループが運営に参加しているとの話だった。
ホテルはソ連国民経済達成博覧会場(Выставка Достижений Народного Хозяйства)、通称ВДНХ(ヴェー・デー・エヌ・ハー)、若しくはVDNKh、の前に位置した。
地下鉄VDNKh駅があり、モスクワ市内への移動はとても便利であった。地下鉄料金は5カペイカ。ホテルの中にはベリュースカ(白樺)というドルショップがあり西側の製品がここでは販売されていた。日没が22時ごろだただろうか、日が長い夏は夕食後に十分な散歩が楽しめた。夜の帳が落ちるころ、ロビーには蝶が舞っていた。
コスモスホテルの部屋
部屋はツイン、これまでのインツーリストホテルとほとんど同じつくりだった。ツインだがシングル利用となりそれで料金が高めだったのかもしれない。ゆったりとした部屋で家具調度類もしっかりしていた。窓からはソ連国民経済達成博覧会場が一望できた。ソ連特有だったのは、各階に部屋の鍵を保管する女性が陣取っていたことだ。
Hotel Cosmos
150, Prospect Mira
Moscow, 129366, Russia
コスモスホテルの絵葉書より
ホテルで絵葉書が売っていたので購入した。写真そのままだったと記憶している。竣工から5年程度だったこともあり新しさを感じた。
1985年当時の絵葉書 | ソ連のホテル
コスモスホテルの夜の蝶とマールボロ
モスクワに到着した7月8日、夕刻にコスモスホテルにチェックインした。右も左もわからないのと夕方だったので(実際には日没は22時過ぎだったが)、ホテル内をあちこち見て回った。特にロビーでは興味深い光景も目にした。夜遅くなるとチェックインしたときにはどうも状況が異なるようだ、バー等に地元の女性と思われるロシア美人が集まっていた。
バーでドリンクを飲んでいると、話しかけられ、ご馳走してくれという。そして、マールボロを買ってくれと。世間話をしていると、その女性の方からいろいろと説明してくれた。このホテルは外国人専用でホテル関係者以外は入館で出来ないという、それではどのように入ってきたのかと質問すると、これよと「マールボロ」を差し出した。ここでは全て袖の下で何とかなるのよ、とのこと。ホテルに入るにはドアのガード(民警)にマールボロ一箱が相場だという。
モスクワでの買い物方法 Shopping in Moscow
買い物のシステムがここソ連では異なっていた。買いたい物をレジに持っていっても買えないのです。 先ず、買いたい品物を店員に告げ、その金額を書いた紙をもらい、それを持ってレジへ行き、そこでその金額を支払い、レシートをもらう。若しくは支払いのスタンプを押してもらう。それをもって最初のところへ戻り品物を受け取る。 旧共産圏ではこのやり方が多かった。買う品物を告げるためと支払いのために2度ならばなければならない。これは混雑していると非情に時間がかかる。
マリナの案内でモスクワを散策 (1985年7月12日)
キエフからモスクワに戻り、再度コスモスホテルへ宿泊した。そのときに丁度玄関でシベリア鉄道のインツーリスト添乗員、マリナと再会した。レニングラードへは翌日夜行列車、丸一日時間があったのでマリナとモスクワ散策することにした。
5カペイカの地下鉄やバスを乗りついで、雀が丘にあるモスクワ国立大学やモスクワを一望できる公園を散策、また、夕食後にホテルの前にあるVDNKhを散歩した。陽の長い夏の公園でのアイスクリームを食べたことなど、爽やかな夏の日の思い出深い一時でした。
この季節モスクワは白夜、夜10時を過ぎないと夕方らしくならない。日本では体験できない夕食後にまだまだ昼間のような明るい公園を散歩。この独特な柔らかい日差しが心地よかった。
出発した時のルーブルのレート(円ドルレートは1ドル=248円だった)
1ルーブル=1米国ドルでああったはず、しかし、私のメモには1ルーブル=380円との記録があるが、どうもはっきりしない。両替はソ連へ入国してからナホトカでした記憶だがこれは失念している。当時は観光客用のレートがあったのでは、計算すると優遇レートではない・・・。両替したルーブルはシベリア鉄道内の食事代金に使った。1ルーブルの100分の1の通貨単位がカペイカ。モスクワの公共交通は、均一料金で5カペイカだった。