ナホトカ航路-横浜港からナホトカへ |
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Trans-Siberian Route ハバロフスク、イルクーツクを経てモスクワへ |
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横浜港大桟橋へ | ||||||||
1985年6月30日11時、横浜港大桟橋からハバロフスク号で出航した。その日は梅雨の半ばでどんよりと曇った日だった。大学の同期に当時住んでいた墨田区緑のアパートから横浜大桟橋まで車で送ってもらった。シルクセンターの交差点から大桟橋に近づくとこれから乗り込むだろう停泊している船が見えてきた。大きくもなく小さくもなくこんなものかと思った。 出国手続きのためゲートへいくと日本人のほかに外国人(白人系)も多数いた。ほとんどが若者旅行者だ。ここは成田のゲートのような混み方ではなくぱらぱらと2カ所のゲートに吸い込まれて行く、並んでも数人だった。ゲートの前で荷物を開けているひと、見送りの人と話している人など非常にのんびりしていた。
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横浜出航 | ||||||||
いよいよ出航の時が来た。甲板に出て送ってもらった友人を探しに行った。映画で見たように既にカラフルな紙テープが投げられていて、私の友人も何本か投げてくれた。汽笛とともにゆっくり桟橋を離れて出航していく様は感動ものである。 船室の住人は、フランス人2、日本人1そして私であった。フランス人は暁星学園のラテン語と歴史の教師でこれからパリへ帰省するのだという。日本人乗客は美大の講師でこれからパリへ留学するとのこと。 船室は最低クラスを予約したのだが、上のクラスが空いているというのでグレード上がっていた。5等から4等だったか、船室は4人部屋でたいして変わらないことが後からわかった。ただ、船底からの距離が1層分遠のいたらしい。そうするとエンジンの音が若干和らぐ。船は上に行くほど高級なのだとそのとき認識した。船の甲板には小さいけどプールもあった。
(今だネガ捜索中、これらは現物からスキャン) |
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ナホトカ航路行程 | ||||||||
ナホトカまでの行程は2泊3日、飛行機で行けば2時間程度の距離なのだろうがゆっくりゆっくりと先へ進む。 梅雨時の曇り空の下、横浜大桟橋からハバロフスク号は出航した。東京湾を出た船は進路を北に取り本州と平行して進み、津軽海峡を越え、日本海を横断してナホトカへいたるルートだ。津軽海峡に差し掛かる頃には夜の帳が下り、外をみるとふわふわと浮かんでいるような漁り火がみえた。 |
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ハバロフスク号の乗客 | ||||||||
最初に少し船室のところで触れたが、ハバロフスク号の乗客は、モスクワへ里帰りするロシア人親子、ハンガリー人外交官家族、米国へ帰国する英語教師夫婦、フランスへ帰省するラテン語教師、日本人観光客など様々だった。 勿論ソ連人(ロシア人)、インツーリストの通訳が乗り込んでいた。彼の名はセルゲイといった。何度も日本へ来ているようで、日本語もかなり達者で生活の違いをいろいろと聞かせてくれた。 |
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ハバロフスク号船内の生活 | ||||||||
船内の生活はいたって暇であった。船旅とはこういうのんびりしたものかと思った。甲板へ出て海を眺めるか、会話をするか、本を読むかである。こうした単調な時間の過ごし方の中では食事の時間が楽しみの一つとなる。
食事は時間になるとアナウンスがあり、レストランまで出かけていく。アナウンスは日本語でもされるが、ロシア人の流暢な日本語に常に感動した。時々ジョークも飛ばしていた。食事はロシア人シェフが作っているのだろうか、日本食に似たメニューもあったがそれは日本食からは程遠かった。しかし、それもまた旅の楽しみと思った。 |
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ロシア民族衣装とダンス | ||||||||
単調な船旅にはアトラクションが付き物。ハバロフスク号ではもちろんロシア民謡とダンスだった。小学生か中学生のときに聞いたことのあるロシア民謡にあわせてロシア民族衣装をまとった男女が踊り様は楽しいものだった。そのなかでも金髪のロシア人女性からは目が離れなかった。 |
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凪の日本海 | ||||||||
二日目の、ハバロフスク号は日本海の真っ只中にいた。甲板へ出るとどんよりとした天気の中日光浴を楽しんでいる乗客がぱらぱらした。プールもあったが、この気温で入る勇気はなかった。日本海は、静かだった。一面の凪だった。 |
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ナホトカ港入港 | ||||||||
3日目に海岸線が見えてきた。陸地にどんどん近づいていきハバロフスク号はゆっくりとナホトカ港へ入港した。この湾の名はアメリカ湾という。由来はわからないが、当時は冷戦時代だったのに。 アメリカ湾へ入ったころからインツーリストの添乗員から注意事項があった。ここからは写真の撮影は禁止だと。ソ連へ来ているという印象を確認したかのようだった |
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補足: 現在ナホトカ航路(横浜-ナホトカ)は就航していない。この航路は新潟-ウラジオストクにとって変わった。 |
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