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このサイトは私がこれまで旅行や出張で海外へ赴いたときに感じたことや必要なこと等を撮影した写真とともに覚書的性格でまとめたものです。時代的には1983年から現在までをカバーしています。1996年初頭より運営しています。
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最新ギャラリー
パラグアイの首都アスンシオンに滞在、そのメモをhttp://py.iio.org.uk/に掲載(2011年12月)。
東欧、市場経済移行期の様子、1990年代
1985年に
ポーランドPoland、チェコスロバキア Czechoslovakia、ハンガリーHungary、東ベルリンを旅行した。数年後に共産主義が崩壊、東欧諸国は市場経済へ移行していく。90年代後半に再度東欧を訪れる。新たに ブルガリアBulgaria、
ルーマニアRomaniaも訪れる機会も得た。トランシルルバニア地方小都市、シギショアラ(1999年世界遺産登録)、12月のある日曜の朝、丘の上の教会(山上教会)に行く途中、子供たちに出会った。屈託のない笑顔はルーマニアの経済低迷を忘れさせてくれるような希望にあふれていた。
郷愁を感じるブルガリアとソフィア Sofia 1996-97
ブルガリアの首都バルカンの付け根に位置する人口145万人の都市、長い間トルコに支配されていた歴史的経緯からブルガリア正教のほかにイスラム寺院も市内に散在している。正教の総本山は
リラの僧院、イスラム支配から逃れ営々とその宗教を守り抜いてきた。
古都プロブディフ、黒海の港湾都市ブルガス、美しい村コプリニシッツア、ブルガリアワインやヨーグルトなど素朴なお国。ウィーンから鉄道で
ユーゴスラビア・ベオグラードを経由したときのこと。(1996-97年) http://bg.iio.org.uk/
魅惑のルーマニア、そして、ブカレスト Bucharest 1998-99
ブカレスト中心部には今でも数多くの歴史的な建物が多く残る。プチ・パリと呼ばれたかつてのブカレストの面影を垣間見る。チャウセスク時代にその旧市街の一部が取り壊され人民宮殿が建ち、宮殿に繋がるビスタが形成された。ブラショフBrasov、シギショアラShigisoara、メディアシュMedias、シビウSibiuなど。(1998-99年) http://ro.iio.org.uk/
中世を面影を残歴史都市プラハPrague, Prague, Praha
プラハ、共産主義時代だった1985年の夏のある日、カレル橋の袂に佇みプラハ城がシルエットとなっていく黄昏時を迎え、
その静かなひとときを楽しんだ。薄暗い街灯の明かりを頼りにしながら夜道を歩き、火薬塔までたどり着いた。
暗い街角から女性が近づいてきて、西側へ出たら手紙を投函してくれるよう頼まれた。2000年1月1日はこの街で迎えた。
旧市街の煌々とした明るさや観光客の多さに舌を巻くとともに今や昔の記憶なのだと感じた。(1985年、2000年)
復旧された旧市街と安定した経済、ワルシャワ Warsaw
2000年1月 、霧が濃く重い気分、反面イルミネーションがとても生えていた。百貨店Zumの
ディスプレイはとても鮮やか、その前のバス停には家路を急ぐ人が多く待っていた。数年前に地下鉄が一部開通し、
市民の足の一つになりつつある。1985年にポーランドを訪れたときにはクラコフKrakowへも行き、アウシュビッツを見学した。(1985年、2000年)
ドナウの流れに沿って、ブダペスト Budapest
ブダペスト、ウィーンから列車で共産主義ブダペストへ、1985年8月憲法記念日だった。中央市場でスイカを買ってドナウ河畔で喉を潤した。1993年、1997年に再訪した。1997年には査証が免除に、ブダペスト郊外にサンタンドレSzentendreという街まで郊外電車で足を伸ばした。(1985年、1994年、1997年)
内戦復旧後のボスニア・ヘルツェゴビナとクロアチア 2004
2004年に内戦が終結して10年を向かえ(1995年デイトン合意)、戦後の復旧から復興へ向けての調査のためボスニア・ヘルツェゴビナを訪れた。首都サラエボ、バニャルカ、モスタール、ブルチコへ。アドリア海沿岸の港湾プロチェ、そして、クロアチアのドブロブニクへも。
念願のバルト諸国2009年と2010年
1985年に断念したバルト諸国、2009年9月の連休に駆け足でリーガ、ヴィリニュス、カウナスを訪れた。天候に恵まれ、すばらしい週末となった。ヴィリニュス旧市街は印象深い。2010年7月末にはヘルシンキからエストニアのタリンを往復した、こちらは準備中です。
西ヨーロッパ 1983-up to date
ロンドン、パリ、ウィーン、ミラノ、フランクフルト、ツェルマット、ヴェネツィアなど、西ヨーロッパ諸国、最初にヨーロッパを訪れたのは1983年ん2月、ロンドンからアテネまで縦断した一人旅だった、この時の好印象がその後のヨーロッパ志向に影響している。
アジアの街、混沌と活気!
1990年代初頭、仕事でバンコク、カルカッタ、スラバヤ、ハノイ等へ出張した。さらに、当時としては知られざる中東の一国、シリアへも出張した。ヨーロッパとアジアの接点であるイスタンブールへは2007年になって初めて滞在した。
ハノイとホーチミン 1998
混沌という表現が相応しいアジアの街、 バンコクBangkokはアジア経済危機にもかかわらずスカイトレインを2000年12月にオープンさせた。 カルカッタCalcuttaはまたひと味違う雰囲気を持つ。 植民地経営を実施した英国東インド会社の名残が色濃い。ドイモイ後、順調に発展を続ける ベトナムの首都 ハノイHanoi、 ホーチミンシティHo Chi Minh City、ダナン、古都フエ、ホイアンなど。1997年に返還された 香港Hong Kong、マニラなど。(1990年代)
中東の歴史都市ダマスカス・シリア 1996-
Damascus, Syria、世界で人が居住し続けているもっとも歴史ある都市、ダマスカスDamascus。聖書にも記されている真っ直ぐ長い道がオールドダマスカスに今も当時の線形のまま残る。 アルファベットの原型が生まれた地域、フェニキア人が残した地中海沿岸の街、ラタキア(Lattakia)。 キリスト教に縁のあるマアルーラMaaloula、セイドナヤSaydnaya、聖ヨハネが生まれたタルトゥースなど歴史の教科書のような国 シリア。ホムスHoms、ハマHama、パルミラPalmyraなど。(1994−2004年)
ナイルの中洲、ザマレックにて、カイロ 2007-08
2007年そして2008年初頭、カイロで仕事をした。ナイルの中洲、ザマレックに居を構え巨大なカイロ都市圏と取り組んだ。
欧亜の接点、イスタンブール
2007/08年、イスタンブールで仕事をする機会があった。アジアとヨーロッパの接点、ベイオールのペラ地区に住み、歴史遺産に囲まれながらの仕事を楽しんだ。地中海沿岸のイズミール近郊の山村と漁村も印象的だった。
中米、パナマとコスタリカ
スポットでパナマとコスタリカに滞在し、ラテンアメリカの洗礼を受けた。
パナマ地峡にて 1994-95
Panama、パナマといえばPanama運河、1999年12月31日、カーター・トリホス条約に基づいて 米国からパナマへ返還され、米国南方方面軍は運河地帯から全面的撤退。カリブ海側のクナ族の自治区クナ・ヤラや植民地時代の文化や遺構など観光資源は豊富にある。(1994-95年)
大自然とともに、コスタリカ 2000
コスタリカ Costa Rica 我がアパートの住人、ペケとコスタリカの様子です。サンホセは熱帯高地過ごしやすい。太平洋側ニコヤ半島Nicoyaと
オサ半島Osaを探索。オサは80年代にゴールドラッシュに沸いた。熱帯雨林が代表する大自然の土地。
ニコヤNicoyaはサーフポイントが多く各国からサーファーが訪れている。(2000年)その他、中南米:ブラジル 北米:Philadelphia, USA
アフリカの大地、ザンビアにて1986-88
ザンビアの首都ルサカLusaka、ジャカランダやフランボヤント(火炎樹)が咲き乱れる緑豊かな都市、そして世界三大瀑布に数えられる ビクトリアフォールズ Victoria Falls、 野生動物が豊富なサウスルアングア South Luangwa、 銅鉱山地帯(Cpper Belt)、キトウェ Kitwe、ソルウェジ Solwezi、東部州チパタ Chipata、 ハラレ Harare、 ブランタイヤ Blantyreなども。(1986-88)
タンザニア、ケニアのインド洋沿岸な 1988
Zanzibar, Mombasa, Lamu Island;1986-88、内陸国ザンビア・ルサカからインド洋沿岸都市へ旅行した。ダルエスサラーム、 ザンジバル島Zanzibar、モンバサMombasa、マリンディMalindi、ラム島Lamuなど青い海と目映いばかりの原色の花々。アラブ交易の面影を旧市街に残すイスラミックアフリカ。 タンザニアTanzania、 ケニアKenyaなど。 (1986-88)
旧ポルトガル領モザンビーク 2006
20数年ぶりにブラックアフリカへ、2006年はモザンビークへ出張した。北部、ナカラ回廊を経由してマラウイ国境へ、また、途中、インド洋岸のモザンビーク島(世界遺産)に宿泊した。
ロシア・CIS (旧ソ連圏)
長年の興味はユーラシア、ソ連時代が懐かしい。
横浜港-ナホトカ航路シベリア鉄道でモスクワへ1985
ソ連邦時代のモスクワ Moscow in USSR Era、 ゴルバチョフ政権へ移行したばかりの1985年6月下旬、横浜からナホトカ航路−シベリア鉄道 経由でモスクワを目指した。 途中イルクーツクで下車、バイカル湖畔のロストヴァンカ観光村を訪ねた。鉄道だけで9300キロの旅、 日数で1週間を要した。その後、モスクワ市内、キエフ、そしてレニングラードへ。ペトロドヴォレツへも。 見知らぬ共産主義国ソ連、近くて遠い隣国でのある夏の体験。(1985年)
中央アジアのクロスロード、ウズベキスタン1996
Uzbekistan、中央アジアの経済文化の中心地、タシケントTashikent、シルクロード要衝の地、青の都 サマルカンドSamarkandやヒバKhivaなど。歴史的文化的に豊かな遺産を持ちかつ灌漑政策の影響で干上がりつつある アラル海 Aral Seaや塩害等の環境問題を抱える国、 ウズベキスタン。 (1996年)
ユーラシアのクロスロード、中央アジア地域にて2009
2007年及び2009年に中央アジアで仕事をした。2009年はタシケントを拠点にカザフスタン、トルクメニスタンへ出張。ウズベキスタンはシルクロードの遺産が多く残る、サマルカンド、ブハラ、ヒヴァなど、そして、消え行くアラル海へも足を伸ばせた。
新制ロシアの首都、モスクワ再び2009
2009年11月下旬、タシケントから連休を利用して25年ぶりモスクワを訪れた。ソ連邦崩壊後初ロシア、再度、赤の広場を目指した。当時のコスモスホテルも未だ健在だった。
南コーカサス諸国にて、アルメニアとグルジア2010
2010年からアルメニアに滞在した。隣国グルジアへも陸路で往復、南コーカサスの小国、日本ではほとんど知られていない旧ソ連圏の国々だ。
back log
初めての異国、西ヨーロッパ縦断−1983年
1983年2月、初めて外国の地を踏んだ。そこは、英国ロンドン、その後、ドーバー海峡を渡り西ヨーロッパ各国各都市を訪ずれた。ブラッセル、ブルージュ、アムステルダム、ハンブルグ。コペンハーゲン、ストックホルム、ヘルシンキ、ハイデルベルグ、ケルン、パリ、ジュネーブ。フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマ・・・・、1ヶ月あまりユーレールパスを片手に縦横断した。そして、ローマからアテネへ飛び、スニオンの岬から紺碧のエーゲ海を眺める。アテネからはJAL南回りでカラチ、バンコクを経由して成田に戻った。(back log1)(1983年2-3月)
ナホトカ航路シベリア鉄道−ユーラシア大陸横断+東西ヨーロッパ+北アフリカ-1985年
最初のヨーロッパ旅行で魅せられたのか、次回の計画を帰国後立て始めた。時間と費用が許す限りと貯金を始めて2年数ヶ月、約60万円の予算で1985年6月末、ヨーロッパ旅行を挙行した。前回の情報を基に更に情報収集を行い、往路は横浜港からナホトカ航路でシベリア鉄道でモスクワまで行き、キエフ往復、レニングラードを経由してフィンランドへ、そして、ストックホルムでインターライルパスを購入し西ヨーロッパへ、途中、西ドイツから東西ベルリン、ポーランド、チェコスロバキアへ、西ドイツからウィーンを経てブダペストを往復、インターレイルパスが使えるモロッコへも足を伸ばした。ユーラシア大陸を横断し、最西端のポルトガルのロカ岬へ達した。復路は片道航空券をローマで購入、縁があったのか再度モスクワ経由のアエロフロートで帰国した。青年が荒野を目指した113にt間の旅(back log2) 1985年6月−10月。